『人を動かす』 D.カーネギー ①

僕はこの著者カーネギーさんがどんな人かしらない。だけどたびたび出てくる数多くの具体例は、彼の交流人物の広さをうかがわせる。そして出会って来た一人一人のエピソードを心に銘記していたことが明かる。

「人間は幸福になる覚悟ができた分幸福になることができる」

「どんな馬鹿でも過ちの言い逃れくらいはできる。たいていの馬鹿はこれをやる」

今までの僕は人に自分を認めさせようと躍起になっていた。自尊心の塊だった。これを書いている今でこそこのような心境になることができるが、明日の朝起きて、カフェにいくなりバイトに行くなりしている時に、同じような考え方をすることができるのだろうか。

中学生の時、学級崩壊が起きた。正直に言おう。僕のクラスにはいじめが存在し、僕は加害者側だった。しかも、直接いじめを実行する担当ではなく、あくまでもいじめを面白がって見ている一番卑怯な人間だった。僕は狂っていた。クラスや学年で権力を持つ側にいないと自分の居場所が無いように感じていた。ターゲットには女の子も含まれていた。彼ら彼女らが僕に何をしたというんだろう。何が気に食わなかったのだろう。理由なんて何でもよかった。ただクラスが日を追うごとに崩壊し、連日のように事件が起き、担任がやつれていく様が楽しいと感じる自分がいた。

ある日、合唱コンクールノートがぐしゃぐしゃにされ、ごみ箱に捨てられていたことがあり、犯人はいじめを実行する男子生徒ということになった。彼はやっておらず、我々は教師に対して憤慨した。これまでさんざん悪行を重ね、怒る資格なんて何一つないのに。

私は毎日提出する日記に、担任に対する抗議文を長々と書いた。勝手に○○君を犯人だと決めつける大人のやり方は間違っている、みたいなことをよくもまあ偉そうに書いたのだ。私は先生が間違っていることを認めさせ、屈服させたかったのだ。そして、抗議文かいてやったぜ、とクラスメイトに自慢し、先生たちに対する反抗を称賛されたかったのだ。

そのときの担任の反応。私の書いた文章と同じくらいの文章を、日記の余白いっぱいに小さな字で書いてきたのだ。その内容は、勝手に犯人を決め付けた私が悪かった。君が丁寧に抗議文を書いてくれて、思いを知ることができて、本当にありがたいと思っている。これからも何か意見があれば言ってほしい。

私はわからなかった。白紙で返され、何ならその反抗的な態度を怒鳴りつけてくるものだと思っていた。そうすれば私はさらに担任に言い返し、打ち負かしてやろう。これが僕のシナリオだった。

この本を読んで気づいた。担任は私に怒ることなく、素直に非を認め、意見文に対する心からの感謝と称賛を送ったのだ。こんなことにこの年になるまで気が付かなかった僕は大バカ者だ。

先日バイトでへまをした。私はそれに気づかずその日は帰った。次の日は出勤ではなかったので自分のミスをLINEで知った。しかし、その伝え方は、私を責めるのではなく、業務の再確認として全体グループに投稿された。昨日の締めを見れば私が犯人であることなどわかるはずなのに、決して直接的な言葉はかけられなかった。次の出勤の際も、何もなかったかのように全員が接してくれた。結果、私は自尊心を守られたのである。私は無能だと思うのが自分だけで済んだのである。

これもカーネギー流の行動なのか。決して人に怒らない。